2014年1月14日火曜日

展覧会レヴュー「反重力 浮遊|時空旅行|パラレル・ワールド」展 @豊田市美

展覧会レヴュー「反重力 浮遊|時空旅行|パラレル・ワールド」展 @豊田市美


 SF好きとしてはたまらなく興味をそそられるタイトル「反重力」。9月から始まったこの展覧会の告知文には、宇宙の加速膨張、宇宙旅行、テレポーテーションなどの言葉が並び、出品作家の名前にも心躍る。一方で気になるのが、同展が「揺れる大地 われわれはどこに立っているのか 場所、記憶、そして復活」をタイトルに掲げ、東日本大震災とその後の世界に正面から密接に向き合った愛知トリエンナーレとの連携事業であることだ。連携事業でありながら「反重力」という言葉づかいはいかにも解放的で大地と、その上に成り立つ現実から離れているように思える。しかし、この展覧会は現実世界、すなわち震災後を生きる2013年の私たち自身にとって、単なるファンタジーでも現実逃避でもない。むしろ、私にとっては途方もない現実味を伴ったものだった。以下はそのことについて展覧会を振り返りながら考えてみたい。
 まず展覧会全体について。展覧会は全体を通して、私たちの知覚に関わる作品で構成されていた。15人と1組の作家による作品はどれも斬新で驚きに満ちていた。初めて味わう感覚への純粋な興奮に溢れた展示である。最新技術を駆使するものもあれば、既存の技術を転用するものもあり、それぞれが全く新しい感覚を生んでいた。それはまさに重力をはじめとする普遍的な法則から離脱するかのような体験である。 
 中原浩大+井上明彦による、究極に安心できる「ライナスの毛布」の試作品には触れられるし身体に巻き付けて寝ることも可能だ。やくしまるえつこらしさを申し分なく発揮したインスタレーションは鑑賞者の動きに合わせて声が遠ざかるので、声の主と追いかけっこをしているような気分になる。布で生物の器官を思わせる滑らかなフォルムの彫刻を作るエルネスト・ネトの《わたしたちのいる神殿のはじめの場所、小さな女神から、世界そして生命が芽吹》はテント状になっており、中に入るとほんのりとラベンダーの良いにおいがする。内藤礼は四本の極細の糸を使い見失ってしまいそうなほど幽かで、しかし巨大な構造物を作っていた。ゆるく張られた、いかにも弱々しく思える糸が空間に聖域的な緊張感を醸つつも、生命を祝福するような優しい眼差しがそこにはあった。ほかにもデジタルメディアを駆使する若手の平川紀道の仕事など、心くすぐられる作品ばかりだった。全作品については書けないので、ここでは特に興奮した作品をひとつ取り上げたい。中村竜治の《ダンス》だ。
 ダンスは展示空間全体に一つの大きなサークルを描く形で構成されている。直径は約10メートル、高さはおそらく180センチくらい。実はこの大きなサークルは直径10センチほどの小さな環が大量に繋がってできている。小さな環は全てピアノ線でできた環だ。支柱を持たないこの構造体は人の横切る風で微かに揺れ、危ういとも思えるほどの繊細さを示すが、横に透かすように覗き込むと環の影が何百も重なってその量感を露にするのである。小さな環が並んで大きなサークルを構成するという成り立ちを考えれば両者は縮小−拡大の関係にあると言え、その精密さは円状の分子が繋がって大きな円の結晶を形作っているとも思えるほどだ。小さな環のピアノ線は上部に近づくごとに細くなり、一番細い部分はほどんど背景に混じってしまう。よく見ようと手前の環に焦点を合わせればサークルの反対側が霞み、奥を見通せば手前の小さな環がぼやけてしまうので、細部と全体を同時に見ることができない。
 相似形の連続、縮小−拡大の関係、視覚の識閾を試すかのようなこの造形からは、梢の繊美を連想した。冬枯れの木立が空を背景にするとその細かい枝ぶりが際立ち、先へ先へと微細な枝分かれを繰り返していることが分かる。細くなった枝先を見ようと梢に集中すれば、木全体のシルエットは背景化され、細部が意識を引くが、最後は空との境目が分からなくなり空間にとけ込んでしまう。逆に、そこから視線を幹に向かって戻していけば、木は全体として小さな枝の拡大形であることに気付く。部分と全体の相似には、鉱物が結晶化して成すパターンの美しさにも通じる自然の規則性、リズムがある。
 《ダンス》が含み、また形成する円形は一見非常に人工的な技巧によるように思えるが、実は自然物としての特徴を有しているのではないだろうか。いや、むしろ、人工−自然という分断をひとつの地平上に捉え直すものとして見ることが可能なのではないだろうか。私にとって、この《ダンス》は人の手で作られたものでありながら、気の遠くなるような反復に、人が植物と共有しているかもしれないリズムや分子単位のパターンを思い、静かで精密な自然法則との連続性を感じるのである。
 《ダンス》のように既成概念の引力圏から脱した軽やかさをもつ作品、またはその引力と戯れるような作品で「反重力」展は構成されている。しかし、それらの作品に意識を乗せて巡っても私たちはファンタジーの世界に逃避する訳ではない。そこで提示されるのは世界に対する新たな眼差しなのである。またテクノロジーだけに偏重した未来像や、自然や理性だけを信奉する態度、あるいは情報のメタ化のスパイラルで周回する態度とは断じて袂を分かつ。むしろ、「反重力」の作品は鑑賞者の知覚を依り代に現実に戻ってくる。つまり、宇宙規模の連想は、神秘的な秘め事ではなく、現実のものとそれを捉える私たちの感覚に帰結するのである。鑑賞者の感覚に寄り添いながら、私たちの知覚能力によって現実を再編するのである。再現実化といってもいいかもしれない。そして、このような自己と世界への問いかけは、愛知トリエンナーレの「われわれはどこに立っているのか」という問いかけと同時に問われるべきだ。
 確かに、《ダンス》をはじめとする作品は震災を直接扱ってはいないし、その他の社会批判、またははっきりとフレーズ化できるほどのメッセージを放っていはいないかもしれない。しかし、私たちの感覚に訴え、自己と世界の関係を再考する経路は展覧会のいたるところに張り巡らされていた。「われわれはどこに立っているのか」を考えるときに、場所、記憶、復活を冠し、建築をも企画に含む愛知トリエンナーレが世界に向けられた目だとすれば、私たち自身を見つめる目が「反重力」展にあったと思う。震災から3年を迎えようとし、さまざまな潮流が交差しないまま勢いを増そうとするときに、そうした機会が愛知トリエンナーレと同時に用意されたことはつくづく心強い。