2013年9月20日金曜日

展覧会レヴュー:「成澤果穂 SUPER BLUE」

吉祥寺にあるギャラリー百想で成澤果穂の初個展「SUPER BULE」が9月18日から行われている。


Facebookページ:https://www.facebook.com/events/159284420938103/
ギャラリーHP:http://thetail.jp/archives/12107

作家から陽のあるうちに来た方がいいと言われ、夕方近くに現地にきた。奥まった通路を抜け、エントランスまで来ると秋の陽だまりで成澤の作品世界が待っていた。
青を基調にして水性ペンで紙に描かれたドローイングの下に、一回り大きな紙を重ねて、縁の外へはみ出しながら作品が徐々に大きく広がっていく。作品はさらに、波や植物のような規則性と不規則性を併せ持つリズムを保ちつつ、素材を木製のパネルとアクリル絵具に転じて、外へ外へと青色を広げていく。その広がりは一つの作品のみに留まらない。青色はすぐ脇のビニールシートに移り、2階へと鑑賞者を誘う。古民家を改装した板張りの2階展示スペースには青の世界が充満していた。紙、パネル、ビニール、ガラスに繰り広げられる成澤の青のリズムが、水中や森を見るときのような、満たされた感覚を呼び起こす。
窓から入り込んだ陽の光で、青が透明感を増している。なるほど、明るいうちにきて正解だった。ふと気付くのは、私が感じているリズムは無名の波や植物のそれとは微妙に異なっているということだ。薄いビニールに残る筆致や紙や板からはみ出していく線は作者の腕の動き、あるいはその時の心情を思わせ、その成澤が醸すリズムに、人は共振のような感覚を覚えるのではないだろうか。
一般的に絵画は、縁によって現実世界と作品世界を切り離すが、成澤の制作姿勢はこれとは逆にあるらしい。彼女の作品は、私たちの動きや話す言葉、考えることが一つの連なりの中にあることを思い出させてくれる。同時に、私たちは自分たちの行動や言語、思考の連続がどこに向かっているかを完璧には予知できない。ゆえに、それを「広がり」と呼ぶことも可能だろう。そう考えてもう一度絵を見ると、支持体を超えて繋がっていく成澤の手の動きに、このような「広がり」を思うこともできる。
このように考えると、作者自身の手帳にドローイングを施した作品が重要な意味をもっているように思える。日常的なメモや予定が書き込まれ、レシートや映画のチケットの半券が貼付けられた手帳の上から色を重ねては、また新たな紙を継ぎ足していく行為は、私たち自身がもつ連続性と広がりそのものである。同じように、拡張を繰り返しては連なっていく彼女のドローイングに視線を戻し、もう一度初めの自然のリズムを思うと、成澤の作家としての確かな個性と、その仕事の射程の長さを感じることできるはずだ。
展示室に入って2時間がたつ。ここまでが展示室に入ってから私の中にわき起こった感想だ。青の世界はまだまだ外へ広がっていく。
(後日改稿)

2013年8月12日月曜日

「文化についての試論、または文化受容のためのエクササイズ」

713日、Give me little more.という店のオープニングパーティーにいた。スペースの「多目的さ」を売りにするだけあって、昼はトークイベント、夜は音楽イベントという気合いの入ったパーティだった。店主であり旧友である新美くんの企画である。今回私はトークイベントの方の企画に関わらせてもらっていた。松本市という街を舞台に、スペースのスタイルやコンテンツの楽しみ方について4時間みっちり話合う濃度の濃いイベントである。「パブリックな場所とはなにか?」「クリエイティブに文化を楽しむこととは?」「普通にコンテンツを楽しむ人が批評を行う必要はあるの?」「批評は他人の楽しみに横やりを入れ、楽しみ方を押し付けることにならないの?」などの質問が飛び交いかなり踏み込んだ議論となった。トークの内容は改めて店のHPで報告するのでそちらをご覧いただきたい。(http://givemelittlemore.blogspot.jp/

そのトークイベントにこんな鋭いフィードバックを頂いた。「例えばナチュラル系雑誌を見ておしゃれな買い物をすることはクリエイティブとは言えないの?」「そもそもなんでクリエイティブじゃなきゃいけないの?」(フィードバックリンク
 この問題の根は深い。それは「なぜ人は文化的に暮らすことが必要で、それはいったいなんなのか?」という根源的な問いにまで通じているはずだ。文化コンテンツを生み出していこうとする人間として絶対に無視できない問題である。同時に、これは私の個人的な不安でもある。なぜなら、スーパーで買い物をして、ネットで服を買い、レンタルのDVDを見ながら旅行雑誌で旅の計画を立てる私の行動と、フィードバックで言われた「ナチュラル系女子」との間に違いを見いだせないからだ。こう考えれば私も大衆的な消費者の一人である。以下は現段階で言えることを書いてこの問いに応えることにしたいと思う。
 問題を整理しよう。トーク中「文化的」や「クリエイティブ」という言葉が飛び交っていた。(両者の違いは後で重要になるのだが、ひとまずは一括りにしておく。)この「文化的」であることの拠り所としてモノ自体のクオリティや人との繋がりなどのコンテクストに重きを置く意見が挙った。一方で、雑誌を見てモノを買ったりショピングモールにいくこと、つまり大衆的な消費行動を「文化的」であると認めることには疑問が残ったままだった。
 疑問の底を見つめていくと「文化」という言葉の曖昧さにぶち当たる。この曖昧さが事態をややこしくしているのだ。そもそも文化とはなんなのだろうか。この言葉には一般的に2つの意味がある。広くはある集団の独自の習慣や思考様式全体(服装、法律、料理、信仰など私たちの生活そのもの)を意味し、狭義には優れた創作物( 映画、音楽、芸術、デザイン、文学など一般に作品と呼ばれるようなもの )を意味する。後者の意味で文化を考えると、なにかを作ることに中心が置かれていて、しかも優れているかどうかの判断はどうにも私たちがしているとは思いづらい。質の善し悪しも分からないし、雑誌を見たくらいでモノを買うことは流行に流されているだけで「文化的」だとは言えないのではないか、と不安になる。そこには「文化」は独創的で、専門的で、特別な、生活とは縁遠いモノという私たちの遠慮あるいは疎外感が見え隠れする。このような経路から2つの問題が導きだせる。ひとつはコンテンツに関して「優れている」という基準が理解できるかどうかという思考を呼び出し、正しい受容の形態、つまりあたかも見方の「正解」があるように思わせてしまうこと。このことはハイカルチャーに対するポピュラーカルチャーの劣等感や、メインから外れることをその存在意義とするようになったサブカルチャーのあり様と連鎖する。ふたつめはこの正解の感覚に基づくヒエラルキー、言い換えれば文化のエリート主義が生じることだ。どこかに「分かっている人」がいるはずだという感覚は、当人の本意不本意に関わらず作り手側と専門家をその中心あるいは上位に押しやってしまうし、文化の受け手を疎外し立場を弱くする。このような状況はフィードバックにあるような「素敵なものを買っているはずなのに、どうにも自分を好きになれない」ような不安に象徴されていると言えるだろう。
 文化の「正解」の問題から考えてみたい。そもそも文化に正解など存在するのだろうか。先に文化の2つの意味について触れたが、このような言い回しは本来、文化の輪郭だけを縁取った言い方だ。そこに優劣の判断を持ち込むことで、文化的なものとそうでないものがあるような幻想が立ち現れる。そんなことはありえない。実際文化に正解を求める態度ほど不毛なものはないと私は思う。小説家の伊藤整が、らっきょうの皮を剥いても剥いても実体がないのと同じく愛そのものにも形がないと言ったように、「真の文化らしさ」を想定しようとすることに落とし穴があるのだ。前者の意味での文化が示すように、文化は総体としてでしかあり得ない。真に文化的なものがない以上、真に文化的な行動もない。したがって、私たちの行動をなにかの基準に照らして文化的かそうでないかに分けることは不可能である。
 しかし、こうした不可能性を理由にすべての行動を文化的だと許容してしまう姿勢は冒頭の不安を解消するだろうか。否、文化の概念を無限に広げていくことはこの問題に解決にならない。しばしば聞かれるような「みんな結局文化なんだから大丈夫。」という発想は問題の本質を突いてはいないように思える。気休めは逆に不安を増すだけだ。なぜなら、行動のすべてを文化の一様相と捉えることができても、大きな流れのなかの一部でしかないという認識は、自分の選択がちっぽけでとるに足らないもののように感じてしまうし、ましてや主体的な文化の担い手という実感は遠ざかるばかりである。
 こう考えるとトーク中に「文化的」ではなく「クリエイティブ」という言葉が使われたことは、やはり重要な意味を持っていたはずだ。ここで言う「クリエイティブ」は受け手目線の問題であるから、いかにものの優れた性質を見抜けるか、眼力の問題となるはずである。すなわち差異を見抜き、主体的に判断する能力に関係している。大衆とは一線を画して自らものごとの価値を発見する姿勢とも言えるだろう。逆に受動的にものごとを消費する姿勢や、それを促す国家、権力、経済、常識、イデオロギーなどと呼ばれるものには長年多方面から批判が向けられてきた。ルイ・アルチュセールが指摘したのは私たちは自由に自分らしい行動しているように思えるが、実は学校、刑務所、病院、メディアなどを通して善良な市民のあるべき姿を知らず知らずの内に植え付けられているということだったし、ロラン・バルトはファッション、テレビ、雑誌、広告等のような私たちが日常的に触れるイメージには見たままの意味の他に、一定の価値観や世界観(「男女らしさ」や「いい家庭」など)を刷り込む意味作用が組み込まれていると見抜いた。またミシェル・フーコーは近代社会は、学校、軍隊、病院、工場、監獄などによって人を理性的な制度の碁盤目にはめ込み、そこから溢れる狂人や犯罪者、性など非理性的なものを異物として社会の外に追いやると指摘した。そしてジャン・ボードリヤールが感じ取ったのは現代的な消費経済が人間の活動すべてを取り込みながら自己を増殖していく働きであった。その世界では、オリジナル不在のまやかしこそが現実で、それは消費によって実感を伴う。またその世界の存在意義は消費システム自体の保存なので、支配−非支配や権力−反権力などいう上下関係は本質的に存在しない。ゆえに革命のようなどんでん返しも意味がない。どのような反逆もシステムの肥やしになってしまうのだ。このようなニヒリズムを受け継いで、カレ・ラースンのような反消費主義者は民衆は消費社会にだまされていて「買えば買うほど、ダメになる!」というスローガンのもとに、ブランド至上主義的消費社会の流れをかき乱し、ジャミングしようとする。彼らの声に耳を傾ければ、たしかに私たちは日常の取捨選択のなかのあらゆる幻惑をかいくぐり主体的に行動していていると思えない。そしてこのような体制批判的な主張は、今日多くの人の口に乗るようになった。現代「クリエイティブ」であるためには、消費社会の虚構を見抜く眼力がなにより重要視されている。
 だがしかし、一度立ち止まってみる必要がありそうだ。果たして私たちは徹頭徹尾消費社会を批判し、ユートピアを目指すことで、主体性を手に入れることができるのか。いや、私たちが現社会に生きる限り消費生活からは逃げ切れない。また逃げ続けるかぎりそれは私たちを呪い続ける。人々を理想郷に導こうとする啓蒙主義は私たちを理想の文化人と大衆のギャップ、すなわち体制批判と日常生活の間で板挟みにし、自分の価値判断は劣っているのかもしれないという悲観に追いやるのだ。そして、当然のことながら、大衆が啓蒙主義に反感を覚えない訳がない。つまり「君たちは騙されている!」と語りかける人々のなかに、知る者と知らない者を分ける視線を垣間みて、その傲慢さに白けてしまうのだ。例えば、それは婚姻制度批判と幸せな結婚式、家庭が生産−再生産の原理に取り込まれてしまったという批判と家族の団らん、あるいは消費社会批判とクリスマスのプレゼント交換にも同様の葛藤がある。そこには見つめる者と見つめられる者の関係があり、その構図は個人の内面にも発生する。例えば、それはいい服、いい車、いい家、いい食事を望む私自身に向けられるもう一人の私の視線だ。
 以上のような思考を辿ると、ふたつめの問題「文化のエリート主義」に裏側から接近していることに気づくと思う。この2つの問題は実は1つの問題の表裏なのだ。ハイカルチャーとポピュラーカルチャーにまつわる階層意識の背景は、生産者と消費者の関係に落とし込んで理解することができるだろう。先に批判の例を挙げたような、市場経済下で生産者の示す価値観に従ってモノを消費する姿勢を突き詰めれば、生産者至上経済としてモデル化できる。すなわち良質(悪質)なものを作る生産者、それを理解し(見抜き)人に伝える有識者、その情報の中で選択を強いられる消費者からなるピラミッド型のヒエラルキーだ。そこから分かるのは、消費者すなわち大衆は歓迎するか拒否するかの選択は許されているが、その価値を書き換えることは許されていない不自由である。
 こうした隅に押しやり難い不安に対する長年の反応は、価値判断の適応範囲を限定し、その内で独自の価値の体系を作り上げることで外部の(消費社会の)優劣の序列を保留することだったはずだ。そうした結界の張り方はかつてのアカデミズムが大学内にこもり、ヒッピーが山野に逃れ、宗教が聖域を作ることに似ている。このように外からの批判を受け付けない限定されたフィールドでなら特別な正解らしきものを感じられるかもしれない。「あなたはよく知っているかもしれないが、ここは私のフィールドだ。口を挟まないでほしい。」と。たしかに文化に普遍的な正解を求めず、いくつものパターンを用意する態度は、消費社会へのオルタナティブとして機能し、情熱がなければひからびてしまうような狭い分野の存続を助ける。しかし、このような態度は価値観の細分化を引き起こし、ひとつの領域内である種のコアとその硬化、ひいては排他を生み出す。ここにも正解の感覚が付きまとっているのだ。繰り返すが、文化に正解などない。大きなピラミッドを解体したあとに、無数の小さなピラミッドを作ることはなんの解決にもならないのだ。そしてユンゲル・ハーバーマスが喝破したように、先鋭化した一部集団による急進的な改革では、全体の流れを変えることはできず、むしろ道を塞ぐことになる。
 このように考えていくと、トーク中にも挙った「個人の思い入れ」、もっと端的な表現では「自分がいいと思えばそれでいいじゃん。」という考えが唯一の希望のように思えてくる。しかし、あえてこの考え方の問題を指摘すれば、それでは自分は騙されているかもしれないという不安を拭えないし、先に挙げたように消費社会の虚構が導く思考停止を打開する訳でもない。また問題を完全に個人に還元してしまえば作り手と受け手、専門家と大衆が切り離されたまま極小単位の活動が起こっては消えていく刹那的な状況の結果、数と権威を味方に付けたものだけが残る世界が現実味を帯びてくる。悪くすれば、神秘主義的な、共有の不可能性のみを共有するようなポーズをとりつつ、その実全てを諦める事態になりかねない。もし個人的なよろこびを大切にするならば、ニヒリスティックな個人主義を貫くことは逆効果だと私は強く主張する。個人の活動の市民権を確保するためには、むしろそのような極小の活動の文化的な働きが広く肯定的に認められる状況を作り出していく必要がある。では、いかにして正解を求めず、すべてを許す訳でもない宙づりの状態で、私たちは文化と向い合い、自分らしく生活することができるのだろうか。
 ところで、ハーバーマスは近代以来の役割分担は専門性を深めることで発展を効率化させ、成果を民衆に還元することが目的だったと指摘する。彼によれば近代の挫折の原因は各領域が分断したことにある。各領域が先鋭化し、例えばアヴァンギャルドがそうであったように、他との連携をとらずに突破口を開こうとし、しくじったのが近代であった。ハーバーマスはこの失敗に一つの改善案を示している。それは専門領域に属さない一般人に可能性を見いだすものである。彼は大衆を各専門家の成果を最大限利用する「日常生活の専門家」だとして、「生活世界は、ほとんど自律的な経済的システムおよびその行政的保管物の内部にある、力学や強制力を制限する諸制度を、みずからの内部から発展させなければならないのである。」という。彼がこのような実践の例を、ペーター・ヴァイス『抵抗の美学』中の夜間学校に通う労働者が自分たちの目線からものごとを考える姿勢に見いだしたように、私たちがある知識と出会ったときにその権威の言うことをまるごと真似する必要はないのだ。このような専門性の枠に捕われず知識や成果物を生活にどん欲に取り組んで自分なりの生き方を編み上げていく方法はミシェル・ド・セルトーの「戦術」という考えを思い起こさせる。
 セルトーは教育者、作者、技術者、革命家、聖職者などの専門家すなわち生産者による啓蒙の裏には、彼らの目に大衆すなわち消費者を創造性がなく教化されるべき受容者として映るようにしむけるシステムがあるとし「ひとつの生産が国全体を「教化しつつ」歴史をつくっているなどという考えがとほうもない自惚れである」と鋭く指摘した。一方で、消費者のように他者によって与えられたルール下にいる者が、いかにそのルールの裏をかき、すでにあるものの組み合わせや転用で「なんとかやっていく」方法に注目した。彼はその方法を「戦術」と呼び、「戦略」と呼ばれるやり方と対置している。「戦略」は自分たち固有の領域を持つことで独立性を保ち、自分と異質なものの存在を念頭に他者との関係をなすもので、先述したエリートと大衆の導く−導かれる関係に重なる。その関係下では大衆はエリートの生み出した模範を真似していくことが求められる。これに対して「戦術」は他人のルール下にあって、それぞれのやり方で戦う方法である。セルトーによれば、それはインディオがスペインに征服され礼儀作法や習慣を受け入れながらもスペインが望んでいたものとは別の独特な社会を作り上げたり、子どもが落書きしたり教科書を汚したりしながら自分らしい空間を作り上げる姿に示されている。身近な例を挙げるならば、私たちのほとんどは学校で正しい日本語を習っているはずなのに、その場にあわせた誤用や転用、冗談の類いを進んで受け入れる。平準化された言葉のルール下で、機智に富んだ言葉の転用がどれほど心を刺激するか私たちが一番良く知っているはずだ。もちろん詩に限らず、逆に日常すでにが詩的だといってもいい。こう考えれば受動性とは真反対にある能動的な消費者の姿が浮かび上がってくるはずだ。こうした日常的実践に私は可能性を感じている。
 こうして私たちたちは、いったん意味を保留されたの「文化」という言葉の中身を作っていけるはずだ。こうした地平の上で美術は複雑かつ可能性に富む領域だ。なぜなら美術は近代以来古いものへの反逆の騎手であったが、専門的で独立した領域となることで、一般的な受容の埒外に置かれるようになってしまった経緯があるからだ。距離感が市場経済の淘汰から守ったものもある。しかし、その余波として現代ではそれは余暇の充実、言い換えれば癒しを担うものとしての認識が広まっている。それなしには存在できないほど、美術は再生産の仕組みに取り込まれている。私が思うに、理由を求める衝動には、答えがあるか危ういようなものへの不安、例えば「人はなぜ生きるのか」のような根源的な問いへ通じていて道理で割り切れないものへの抵抗感があるのではないか。しかし、先述のような状況で、その存在理由に絶対の答えを求めずとも楽しむこと、いかに楽しめるかを考えることは、この事態に変化をもたらすと思う。それは「楽しければいいじゃん。」という思考停止とは全く異なる。
 専門領域について、私はなくすべきでないと考える。分業による科学や美学の探求を行うスペシャリストは、他の職業と等しく尊い。同時に「日常生活の専門家」はそれらのスペシャリストの成果を存分に自分のために使い、その価値を生み出し続ける。この視点からすれば本質的に生産者と消費者に上下関係は存在しないのだ。それでは職業人としての批評家とアマチュアが生み出す批評性はどのようにあることが可能だろうか。まずはスーザン・ソンタグの「いま断じて必要でないこと、それはこれ以上さらに「芸術」を「思想」に吸収せしめること、あるいは「芸術」を「文化」に吸収せしめることである。」という言葉に頼ってみよう。彼女は徹底して芸術そのものを見つめる目を重要視する。それは芸術が「思想」や「文化」といった何かのために存在するという考えを真っ向から否定する構えだ。そこで批評は、内容重視の姿勢から脱し、作品の内奥に隠された意味を明らかにし「作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを明らかにする」ために機能する。そのために批評は「透明」でなければならないと彼女はいう。そのことによって私たちの本来的な感覚、すなわち見て、聞いて、感じることを引き出すことが必要なのだ。その基礎には彼女の「ほとんどどんな場合でもわれわれの外観はわれわれの存在の仕方であると言っていい。つまり仮面は顔なのだ。」というあるがままのモノに向き合う姿勢がある。このようなソンタグが芸術にまつわる意味の呪縛を解いてから50年近くがたち、私たちはさらに開かれた鑑賞の地平に立っている。この視界を開くのにアメリア・アレナスの仕事は欠かせないものだった。彼女もやはり「いったいぜんたい、アーティストは何がいいたいのだ」という答え探しから脱却し、「私たちにはそう感じることができる」ことを鑑賞の要に置く。それは曖昧さや多義性を受け入れながら、自分なりの感覚を作品との間に生み出す作業だ。彼女は「アートはつねに、そこにないものを語っている。そしてアートの意味とは、作品が「枠」で取り囲んだ、しっかりと捕まえていなければ今にも逃げ去っていくようなものにたいする、私たち自身の直感のなかに存在する。」とし、アートに対する私たちの反応は「私たちが知っていることと、知っているつもりのこととの、気ままな組み合わせの結果」であり、「それは知覚と期待、閃く直感と「美しき誤解」の絡み合った迷路。美術作品からどんな感動を得ようとも、それはこういった錯綜したプロセスから生まれるものなのだ。」と言い切った。このような作品との間にその都度発生する何かこそ、言葉をかけてもらうのを待っているはずだ。私はそれを批評と呼びたい。この意味では通常排除されるべき先入観も鑑賞の一要素となるが、注意したいのは自分が先入観を持っているという自覚である。それは今見ている作品は、他のだれかの目には全く別ものに映っているかもしれないという事実を受け入れることだ。他の見方を間違いとして退けることなく、気づきや発見を促すことで、「見え方」のヴァリエーションを増やしていくことが必要である。このとき専門家としての批評家は「透明」な手法によって感覚を喚起し、数あるうちの一つのビジョンとして作品を語ることで、作品と鑑賞者に貢献できるはずである。
 このようなことは「文化」についてもにも言えるのではないか。つまり、多様性を進んで受け入れながら、他の人が気付いていない何かに様々な角度から光を当てていく作業。そしてヴァリエーションを豊かに広げていくこと。それは一個の大きな作戦というよりは、点在する個による実践である。このようなことは、実はすでに街のあちらこちらで続けられてきたことだし、歴代の研究者が重ねて述べているところである。いまさら言葉にする必要はなかったかもしれない。しかし、拠り所がなければ身近な実践が崩れたり、風化してしまうような事態が迫っているとすれば、以上のような言論がいささかでも役に立つことを願っている。


後記
 この試論を書いたあと、今私は村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいる。ボードリヤールの考えた世界が色濃く反映されているとのことだ。高い壁に囲まれた「世界の終わり」にある「完全な街」の住人はそれぞれ役割を持ち安らかに暮らしている。そこにはなんの不和もない。完璧なシステムは、不和の原因となるような要素=心を取り除くことでその完璧さを保っている。主人公は「私」と「影」に分かれて、「私」はシステムの中にわずかに残った心の断片を求め、「影」は心が残っていると思われる外界へ希望を見いだす。同時に進行する物語「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は自らの人生をはじめから限定し、その範囲内を満たすことで幸せを感じている。欲求の絶対量を少なくすることで、満たされやすくしているのだ。実は「世界の終わり」はこの主人公の脳内で起こっている。脳内で永遠に続く夢である。幸せを限定するハードボイルド・ワンダーランドの主人公−心がない完全な世界で心を探す「私」と「影」という入れ子状の物語なのである。では「私」か「影」が完璧な世界の内側または外側で心を見つけたとき、なにが起こるのだろうか。あるいはこのようなスキゾフレニクな状態は主人公をどのように変えるのだろうか。あいにく主人公は眠り続けている。
 この話が書かれたのは85年ということだから、このような葛藤を今再び持ち上げることは周回遅れと言われても仕方ない。しかし、私たちは現代でもこのような思考を繰り返しているのではないだろうか。つまり、なにをどのように決めるかは全く自分次第ではあるが、ある程度の限定がなければ、自由という名の深みに嵌る。同時に私たちは自由になりたいと望み続ける。考えると切なくなるが、もしこの拮抗がポジティブにもネガティブにもバランスを崩す一瞬、垣間見えるものがあるとすれば、そこに芸術の可能性を見いだしたいと私は思う。おそらくこの試論で言いたかったのはそのことである。



参考文献
『なぜ、これがアートなの?』アメリア・アレナス,(川村記念美術館監修、福のり子訳 ), 淡交社, 1998
『消費社会の神話と構造』ジャン・ボードリヤール(今村仁司・塚原史訳),紀伊国屋書店,1979
『文学・芸術は何のためにあるのか?』,吉岡洋・岡田睦生編,東信堂,2009
『サンタクロースの秘密』クロード・レヴィストロース(中沢新一訳),せりか書房,1995
『日常的実践のポイエティーク』,ミシェル・ド・セルトー(山田登世子訳),国文社,1987
『反美学 ポストモダンの諸相』, ハル・フォスター編(室井尚、 吉岡洋訳), 勁草書房, 1987
『再生産について』,ルイ・アルチュセール(西川長夫、伊吹浩一、大中一彌、今野晃、山家歩訳),平凡社,2010
『反解釈』,スーザンソンタグ(高橋康也、出淵博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄訳),筑摩書房,1996
『世界制作の方法』,ネルソン・グッドマン(菅野盾樹訳),筑摩書房,2008
『現代思想の冒険』,竹田青嗣,筑摩書房,1992
『“芸術”が終わった後の“アート”』,松井みどり,カルチャー・スタディーズ,2002
「異文化理解の理論と方法」,羽口益生,『比較文化論 異文化の理解』収録,世界思想社,1995
『さよなら、消費社会 カルチャー・ジャマーの挑戦』,カレ・ラースン(加藤あきら訳),2006

2013年8月9日金曜日

展覧会レヴュー 「膜|filmembrane」(2013年7月10日-21日)東京小金井市

展覧会レヴュー
「膜|filmembrane」@小金井アートスポット シャトー2F
展覧会ウェブサイト http://filmembrane.tumblr.com/



膜。フィルム、牛乳の膜、サランラップ、羊膜、油膜、オブラートなどなど。膜というものを考えてみれば、なんてあやふやなものなのだ。薄くて、ぺろんしていて、頼りなく、面でしか存在できない。しかしなんとも無視し難い存在だ。それは壁のように両者を完全に分つ訳ではなく、ものの内部と外部に仲って両者の関係を取り持ったり(浸透)、あるものの表面の分身としてその主の表情・状態を浮かび上がらせたりする(膜が張る)。膜というものは、何かと何かの間や表面にあることで、ものの性質や状態への感覚を敏感にするのだ。


2013年7月に開催された津田翔平、渡辺俊介、阿部圭佑の展覧会「膜|filmembran」のウェブサイトやフライヤからは、すでにこのような無視し難い感覚が醸し出されていた。(上の図参照) 展覧会に関する文章などに薄い膜がかかったようなデザインになっており、普段反射的に記号を読み取る私たちの思考をいったん保留して、より根源的に「そこになにがあるのか」を見つめる視線を喚起していると言える。このように表面的な情報ではなく、存在や感覚への眼差しを引き込む力が展覧会場には充満していた。

会場に入ってまず目に入るのは津田の《無在 nowhereabout》である。暗い室内に半透明のシートが何層にも張られ空調の風で小刻みに震えている。その中心部からは灯火のような光がぐるぐるとゆっくり放たれることでシートの表面を浮かび上がらせる。シートが重なっているところとそうでないところがあるために、さっきまでそこあった光が急に、あちらに移動したような錯覚が起こる。この感覚はなんだろうか。海を例えに考えると、わたしたちは海辺に立つとき水面を見て膨大な量の水を意識する。しかし一旦水に入ると人や魚などは見えるのに、水は「見えなく」なる。では、空気ではどうだろうか。この作品から湧き起こったのは、私たちは空気あるいは空間を「見えない」状態としてミュートして都合のいいものだけ認知しているのかもしれなくて、私たちは実は常に空間という存在に満たされているという感覚であった。同時に作品がシートで空間を囲む形をとっているため、その空間内に満たされたなにか溶液のようなものを連想させ、シートは「見えるもの」とも「見えないもの」とも言える未分化な状態を保っていた。奇しくも作家が作品内で作業中で、シートに時々人の姿が映っていたことは象徴的だった。私たちが見て、認識することの土台が危うくなるようで、グラッとくる作品であった。

津田の《無在》を「膜」という視点から見れば、それは事物を認知することの表面性と、目と事物の間の空間を満ち満ちる溶液のような存在として浮かび上がらせるものであると言えよう。一方で渡辺の《追放 purge》《追悼 sorrow》《追憶 nostalgia》は、「膜」が内包する境界性と浸透性というアンビバレントな性質から語ることができるだろう。映像作品《追放》で映されるのは並んだ裸の男女の腹や背中である。彼らはただ静かに並んで息をしている。それに同調するかのような音楽。息をするたびに男女の身体がゆっくり膨らんだり縮んだりして、人の体内に別々の生命機関が働いていることを実感する。それぞれの生命の営み、言うなれば内的世界が交わることなく別々に存在していることを強調するのは、身体の表面、皮膚である。作品に添えられたテキスト中の「私の声は届くことはない。今はただ見つめるだけである。」という言葉が身体による断絶の感覚を増幅し、皮膚=膜の境界性を思わせる。そのテキストは「明日が来ればまた、私の存在が彼女を孤独にするだろう。」という予感的な言葉で終わっている。これに続く作品《追悼》は壁を切り抜いた穴に男性のポートレートをはめ込んだ形になっていてるが、照明がないため時々他の作品の光に透かされることでやっと顔の輪郭がかすかに見える。光を受けなければ見ることができない構造と先の言葉からの予感を受けて、他人がいなれば自分という存在すら認識できないが、同時に他人がいることで孤独を感じるという根源的な葛藤を想起する。《追憶》は水に浸った男女の服とその間に映される少女の影という構造だ。少女の影が手足を動かすたびに、男女の服の静性が強調されて寂しい印象を受ける。これらの思考をなぞれば、人と人の間に存在する乗り越え不可能な境界や、自己という存在の他者依存性という着想に至りそうなのだが、渡辺の作品にはそのような否定形の言葉では取りこぼしてしまうなにかがあると私は思う。彼の作品から読み取れるのは徹底的に分かり合うことなき世界ではないはずだ。膜という補助線に頼れば、微小な隙間からなにかが滲みだして移動する浸透の作用を連想し、呼吸するたびに肉体が溶けて混じり合ってような想像をしたり、《追憶》の動きがないように見える水が実は分子レベルで流動していることを思って感情の可変性を想像したりできるはずである。それは渡辺の作品が内包する静かに混ざり合う力によるもの、膜から連想したような混ざり合うエネルギー、合一への経路だと私は考える。

阿部の作品《people hole》はくすっと笑ってしまうようなゲーム性をもっている。床に設置されたブラウン管テレビに順に監視カメラの映像がながれた後に、正面の壁にコンビニで買い物をする男の姿と真っ暗な映像が映る。男は箱をもっている。男が店員となにかを話すと彼は箱の正面をこわごわと触る。他人が動揺しているのを覗き見ているようで、いたずら心をくすぐられてワクワクしていると、先の黒い画面から膜を破る男の指、そして怪しむような顔が見える。「いたずら成功」に一瞬喜んだ直後、急に怖くなった。なぜなら急に男の訝しむ視線は鑑賞者の方に向けられているのではないかと思い始めたからだ。小さな部屋の中にいる自分が見られているのではないかと感じると、先ほど破られた膜が急に自分を守っていた何かだと思い始める。膜を破ることで見る−見られる関係が逆転してしまっただけではない、見る−見られる関係を俯瞰的に見る視線を私自身も、おそらく他人も持っていることがこの作品では提示されているのだ。しかも、その俯瞰的な立場の安全性が、膜という象徴的なものを破る事で脆く崩される。


以上のような感想にはおそらく作者の意図を曲解したところもあったと思う。そして、展示場所が変われば作品が全く別の表情を見せることもあるだろう。しかし「膜」という言葉がこれらの作品の力を鋭くあぶり出し、一つの見せ方を提示していたと思えば、これほど作品を輝かせるタイトルはない。そしてなにより重要ことは、一つの言葉からこれだけの想像を許す作品の豊かさである。

2013年7月4日木曜日

映画が鳴っている 映画レヴュー:『TRAIL』

渋谷ユーロスペースで波田野州平監督作品『TRAIL』という映画をみた。


男3人の旅が話の軸ではあるのだが、起承転結で表すことは難しい。なんと表現すればいいのだろうか。かき氷みたいに淡くて繊細な、夢のように不条理な、静かで詩的でリズムにのった、キッチュなコメディみたいに可笑しい、民話のように不思議な、、
言葉を繋げば繋ぐほどこの映画を言い表すのに不足を感じる。たしかに、繊細で不条理で詩的で可笑しくて不思議だと思ったはずなのに。たぶん、言葉の映画ではないのだ。もっと言葉の外側にある入り交じったなにか。

ぼくらが普段見慣れている映画には言葉で説明できる物語がある。「地球に隕石が降ってきてやばいので男たちがロケットにのって勇猛果敢に闘ってなんとかする話」とか。ショットとシーン、音楽は一つのストーリーをドラマチックに語るのために編集されて構成される。服の縫い目をわざわざ見せないように、それらは気付かれないようになっているけれども、パーツごとに物語という目的に沿った役割を負っている。それらは例えば、スピード感、笑い、恐怖、感涙などを演出しながら、物語を進めていく。(もちろん普段のぼくらは服を分解することもなければ、映画をパーツに切り分けることもしないのだけれども。)
一方で、『TRAIL』は部分に分けて語ることが難しい。それは音楽をいくら言葉で説明したても伝わらないあの感覚に似て、全体が絡み合ってひとつの感覚を作り上げている。全編を通して気持ちのいい音楽を聞いているような感覚だった。面白いのは、作品を反芻するたびに思い出すシーンが違うことだ。ふと気に入った曲を口ずさむだびに、歌うフレーズが違うように。

こんな言い方をすると、この映画を「物語映画」から切り分けていると思われるかもしれないけど、ぼくはそんなジャンル分けに大した意味はないと思っている。なぜならば『TRAIL』はそれでしか成し得ない映画体験だからだ。そしてこの映画が引き出す、一つの映画に「そのもの」として向き合う姿勢は、ぼくらの欲求さえもジャンル分けする商業映画への確かなカウンターとなるはずだ。

2013年6月28日金曜日

書評『地域文化のアクチュアリティ−愛媛からの発信−』

こんにちは。
最近やたら友人との思わぬ再会が続くのは、雨のせいで移動が徒歩だったり、バスだったりするせいでしょうか。たまには移動手段をかえるのもいいですね。
さて、2回目の更新は書評です。


2006年に上梓された『地域文化のアクチュアリティ−愛媛からの発信−』という本がある。
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開けば愛媛の舞台芸術、音楽、美術の諸活動が広範に紹介されていて興味深い。伝統芸能からパブリックな意味を語りづらいインディー領域までを一冊で取り扱うところに、この本を世に送り出した愛媛大学地域創成研究センターの姿勢が伺える。本稿では、その基本姿勢を示す愛媛大・寿卓三氏による序論『住まうと芸術文化一彷程としての帰郷,あるいは本書の序論帰郷としての彷程一』について考えてみたい。

この論文は、私たちがある場所で暮らし生きること、つまり「住まう」ことと芸術文化の関係について考察している。近代都市システムの遍在は、わたしたちを「われわれの」と呼べる「故郷」から物理的・精神的に引き離し、「私の主人は私だけ」という自由と同時に「根無し草」的なアイデンティティの喪失をもたらした。では、「この世に居場所を持てない」現代人はどのように居場所を確保すればいいのか?生の拠り所として帰るべき「原郷世界」を探す旅/彷徨について、またそのバリエーションとして人と心を通わすことについて、文学作品に問いかけてみるというのがおおまかな筋だ。ざっくり言えば、自分探しの旅についての話である。
自分探しの旅、と聞いてウィンドウを閉じるのは待ってほしい。たしかに恥ずかしい話であることは認める。某青春少女マンガで自転車で疾走(失踪)した彼を思い出して悪寒が走るのも無理はない。しかしもう少し堪えてほしい。同論文でいう「原郷世界への探求」、「彷徨/帰郷」=自分探しをこじらすと、気が狂ったり(梶井基次郎をイメージしている)、宗教や死とお近づき(こちらは三島由紀夫)になったり旅に出たりする。特に自分を探して現実生活空間から旅立つという主題は「恋愛の本質的な葛藤とそれがもたらす甚大な余波」(註1)という形で、夏目漱石のほか現代文学でも展開されるという。こうした森見登美彦的事態を避けるために、みな日常の忙しさと社会的向上と、ぼちぼち満たされた余暇という生活に身を置き、人との適度な距離を保っては問いを止め、あますっぱい自分探しの危険から身を守っているのだ。しかし、寿氏は鋭く指摘する。「形而上的な夢をロマンティシズムという名のもとに切り捨てるだけでは、われわれの生の可能性を「生活のささやかな上昇」のみへと縮減し、結果として生の尊厳を消滅させていくことになってしまうのではないか。これは、現実に対する批判精神を麻痺させ、没知性へと後退してく潮流に加担することになるのではないか。」と。不肖私ももうすこし想像を膨らまして頑張ります。お付き合いください。

ところで、寿氏はこうした状況から無理に結束すべきではないと言う。なぜならば、アイデンティティの欠片ひとつから無理に「われわれ」の共通の母体を作り上げれば、原理主義となり強く排他的になるからだ。これには深く納得した。たしかに拙速に「答え」を出して原理主義に偏るより、いったん保留した方が安全だ。しかし、保留は問題を解決する訳ではない。むしろ事態は悪化する。同論文中に挙げられた吉行淳之介と桐野夏生の作品の主人公は自分の居場所を求めて非日常=旅へと足を向けるが、前者は自己嫌悪に苦しみ、後者は思考停止という結果に終わり、「原郷世界」との邂逅は果たせず終わる。非日常の祝祭世界に自分の居場所を探すことは、半死半生の危険を伴うのだ。ひからびたり、膿んだり、凍ったり、そして待ち受けるのは絶望と狂気。しかし、寿氏はあきらめた訳ではない。漱石の制作姿勢に可能性を見ている。それは芸術家の非人情、則天去私と呼ばれる自己を滅し真実を見抜く姿勢だ。このような観察眼、審美眼によって見いだされた普遍性は再び人を結び付けることができるはずである、というのが着地点だ。

たしかに、芸術家の目は普遍の真理を見抜き、人類や国民、地域住民の心の里を見せるかもしれない。同論文が引用するヘルダーリン『ヒューペリオン』のように「民族全体が美を愛し、自国の芸術家たちに宿る精霊を敬うところでは、ひとつの普遍的な精神が生気のように吹きわたり、ものおじする心も開け、慢心は消え、あらゆる魂は敬虔で偉大となり、感激が英雄を生み出す。」かもしれない。ひとつの理想型だ。しかし、ここで私の脳内によぎるのは世界と分かり合いたい欲求と自分らしく人と違っていたい欲求の相克、すなわちいかに鑑賞するかの問題だ。その疑問は次のような一巡の考えになる。つまり、美的に絶対的なものの前で自己を遥かに超越する存在に快感を感じそれを人と共有するよろこび、それを人に強要してはいけないという懸念、それにそもそも絶対的な美が存在するのかという疑問である。思い出すのは『文学・芸術は何のためにあるのか?』(2009年)に掲載された岡田睦生氏のテクスト「文学・芸術は生きる希望を与えてくれるか?」だ。彼は芸術の感動とは「他者と合一したい、大いなる宇宙と一体化し、その中で消え去りたい。そんな自己滅却の衝動である。」と看破した。しかし、同時に2つのためらいについて言及している。ひとつは、この「感動」が身体的で個人的なものゆえに言語化できず、完全な共有が不可能であること。もうひとつは、大いなるもののための自己滅却の危険性だ。彼はベートーベンの第九で「いざ抱き合え、幾百万の人々よ!」と歌われるときその輪に入れず「ちょっと、、」なることを許さない同調圧力を例に挙げ、芸術が「教化」の手法として働くことを指摘している。そんな普遍性へのためらいは、某SFアニメ映画で原始に戻れとパシャパシャ液化しては一体化していく人類の様に「ちょっと待て」思い、最後に一体化しない人間がいてよかったと思った感覚に似ている。もう少し議論を明確にするために、「我と汝」を書いたマルティン・ブーバーを引いてきてもいいだろう。そもそも対話が「俺」と「お前」がいないと成立しないのだから、まず自分と他人が別物だと認識できなければコミュニケーションできないと彼は言った。この経路なくして「一体感」の快感は味わえないと私は思う。想像してみよう。出自の異なる老若男女がノリにノってるライブがあるとする。醸されるグルーヴ感は老・若・男・女がいて成立するのだ。よくいう話だが、なにかと「同じ」だと認識できることはなにかと「違う」と認識することと対なのである。

話がややこしくなってきたので、問いの角度を変えよう。そもそも絶対的な美は存在するのだろうか。私は存在すると思う、ただし極個人的世界の内でのみ。作家も個人ならば、見る方も個人だ。結果的に「絶対」のバリエーションが個人の数だけ存在することになる。言い換えれば「おお、これは」という感動は十人十色なのである。なにが言いたいかというと、美的存在の前では与える者−享受する者という関係ではなく、美的なモノゴト−体験する者という関係しか存在しないのである。すべてのモノがあまねく美的な存在になりうるが、特に美的体験を触発するモノを発見しつくるのが社会的存在としての芸術家だと言えるはずだ。

しかし、どうにも作家が発見した美は、多くの人を巻き込む普遍性があるところが悩ましい。そうしてまた「原郷世界」を探してみたくなったりする。徹底した相対主義と究極の存在への憧れという矛盾、疑うことと信じることが並存する状態は、やっぱり自分探しに逆戻りしてしまうのだけれども、結果的にその方が健全だったりするのかもしれない。なにかが多くを動員しながら一方向に加速する時、こんなクラインの壷的思考が果たす役割があると思っている。最後に岡田氏の言葉を紹介して終わりにしましょう。

だが、幸いなことに、私たちは芸術によって命を落とすことは、まずない。私たちは芸術体験という死の儀礼を通して、再び蘇る。こちらの世界に戻ってくることが出来る。その時、自分の身体が、心が、隣人たちが、社会が、世界が、それまでとはまるで違って見えてくる。心の闇を引き受け、それを爆発させ、過去の自分を崩落させて、そして生き返らせてくれること。

こうした危険な侵犯の恍惚としての美的体験を生活圏にインストールしていくとき、文化は多義的でアクチュアルな実践となるはずだ。問題はいかにその現場を用意するか。冬にむけて展覧会の計画を立ててます。順次報告します。乞うご期待!


註1:『漱石とグレン・グルード 8人の「草枕」協奏曲』所収 樋口覚「グレン・グルードを聴く夏目漱石」から同上論文中で引用



2013年5月31日金曜日

みなさま、こんにちは。
思い立ってからはや1日、まるっとブログの構築に費やしてまいりました。

ブログはSNSとは別物だ、という衝撃の事実を友人から知らされたのは昨日の夜のこと。
友人「Facebookで長文書くのはファミレスで重要な話をするようなもの。」
私 「!! ならばどこでなら?」
友人「ブログ。ブログは落ち着いた喫茶店みたいなイメージだな」
私 「!!」

という訳でブログやってみようかなと。

ここまで作ってみたが、なかなか孤独な作業でした。だれに送るでもない手紙を書くというか、だれも蹴りにこない空きカンを守るというか、そういう意味でSNSにはない孤独感と気恥ずかしさがあってなかなか投稿に勇気がいるぞ、これは。
ツイッター・Facebookでは自分の投稿がタイムラインの果てに遠ざかっていくのを見て、「さよなら、もう会うことはないでしょう!成仏してください!」と安心できるが、ブログはいつまで経ってもそこにいて、自分が売れ残った犬の気分になること請負です。

そんなことをぶつくさ言ってないで、あくまでもここは喫茶店だと思い込み、展覧会の感想や読んだ本について思ったことを述べてみたりする根暗でポップなブログにしたいと思います。
ちなみにタイトルのsite0.9は、1になる−なりきる−なりあがるギリ手前を責め続けたい乙女心の現れです。嘘です。

それでは